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今回のテーマは、終活を始めると必ず考えることになる「死」について。
人は致死率が100%であるにもかかわらず、日本では死というものが比較的タブー視されているように感じます。
個人的には、日本の文化的背景も大きく影響しているのではないかと思っています。
私自身も終活を始めるまでは、「死」というものに対して、これまでの人生でそれほど深く考えたことがありませんでした。
もちろん、誰にも起こりうることなので、全く考えていないということはありませんが、死についてとことん考えるということは、これまでしたことがなかったのです。
しかし、終活を始めると、必ずと言っていいほど登場するのが、「尊厳死」という言葉。
「安楽死」という言葉もまあまあ耳にするようになってきましたが、尊厳死と安楽死の違いとは何でしょうか?
終活を始めたばかりの当時の私は、その2つの概念の違いを理解していませんでした。
というよりも、そもそもその二つの言葉の違いについて考えようとしたことすらなかったということに気づいたのです。
安楽死と尊厳死の違い
尊厳死とは、人間が人間としての尊厳をもって死に望むすることであり、病気などで治る見込みのない人が、延命措置を行わず、自然死を迎えること。
安楽死とは、病気などで治る見込みのない人に対して、医師などが何らかの方法(例えば薬物など)で、その人を死に至らしめること。
これだとちょっとわかりにくいので、英語にしてみるとちょっとわかりやすかったため、英語で補足してみます。
安楽死には2種類あって、それを積極的安楽死(Active Euthanasia)と消極的安楽死(Passive Euthanasia)と表現します。
- 積極的安楽死は、killing・・・死に至らしめる
- 消極的安楽死は、allowing to die・・・死ぬに任せる
というわけです。
この2種類の安楽死に対して、死に対峙する「本人」の意思(意志?)3種類が加わると・・・。
- 本人の意思による
- 本人に意思決定能力がない(例えば、本人が認知症や脳死の状態などで判断能力がないとされる場合など)
- 本人の意思に反する
計6種類の組み合わせができることになります。
つまり、
本人の意思 × 積極的安楽死=安楽死
本人の意思 × 消極的安楽死=尊厳死
ということができます。
本人の意思がない場合は、安楽死だ尊厳死だと第3者が言っても、本人の意思がない以上、判定は不可能というわけです。
(裁判沙汰になる場合は、概ねこういう場合ですね・・・)
だから、本人の意思の有無、というのが非常にキモになってくるのですね。
日本で、法的に安楽死・尊厳死が認められる日は来るのだろうか?と考えてみましたが、保守的な日本ですから、私が生きているうちは来ないだろうな・・・と思ってしまいます。
生きて自分の意思があるうちに死について考える必要性
人は必ず死にます。
「絶対」「100%」と言いにくいことは世の中にたくさんありますが、死は確実に「絶対」と言えるのもの1つです。
それにもかかわらず、なぜ人は死というのものから目を背けるのでしょうか?
40代で終活をしていると、
「まだ早いよ」
「どうしてそんなことを考えるの?」
「死んだ後のことなんて知らないよ」
と言われることが多々あります。
でも、自分自身の死を目前にして、自分ができることなど、どれくらいあるのでしょう?
意思決定能力があるうちに、
精神状態も肉体状態も追い詰められていない状態のうちに、
ニュートラルに死というものに向き合える状態のうちに、
考えなければ、正しい判断なんてできないと思いませんか?
先延ばしにしていいことなんて何一つありません。
自分がどうしたいのか、どういう最後を迎えたいのか?
しっかり今から考えて準備していく必要があるのです。
自分の人生、意思決定能力が亡くなった後に、他人に決められることほど残念なことはありませんよね。
日本では尊厳死・安楽死は法的に認められていない
残念なことではありますが、自分の人生のことであるにもかかわらず、日本では尊厳死・安楽死は法的に認められていません。
私自身は安楽死擁護派ではありませんし、否定派でもありません。どちらを好むかは人それぞれなので、本人がいいと思うことを尊重すればいいと思っています。
尊厳死宣誓書などを作成することは、多少なりとも自分の意思(意志)が考慮される可能性を高めてくれます。
これは、行政書士さんなどにお願いして作ってもらうことになりますね。
必ずしも聞き入れてもらえるわけではありませんが、尊厳死宣誓書があることによって、不要だと自分が感じている延命措置をせず、尊厳死の意思を尊重してもらえる「可能性」が増えることは間違いありません。
また、日本尊厳死協会という法人があって、会員になると会員証やリビングウィル(終末期医療における事前指示書)の原本証明付きコピーがもらえるので、個人で意思表示するよりは、医療機関に自分の意思が受け入れられやすくなる可能性がさらに高まるのではないかと思われます。
こういった方法を取ることにより、自分の人生の終わり方を、自分の希望する形に近づけることができるというのは、非常に素晴らしいことだと思います。
特に、一度延命措置を施されてしまったあと(人工呼吸器などを付けた後)では、それを外すということが、非常に難しくなると聞きます。
確かに、外すと死ぬことがわかっているのに、それをわかっていて外すというのは、殺人になるかならないかのギリギリのところだと思います。
だから、最初から延命措置をしない、という意思を表示しておくことが非常に大切になるのです。
スイスには自殺ほう助団体があるらしい
さすがスイスというべきか、なんというか。。。
スイスには、自殺ほう助団体があるようで、生きていくのが辛い、この苦痛から解放されたいという願いを持つ人が、ある一定の条件をクリアすると、医師のカウンセリングの元、点滴もしくは薬によって、安楽死ができるということです。
点滴のバルブを自分で開放し、体内に致死量の薬物を流し込む、あるいは、致死量の薬物を、自らの意思で飲む。
誰しもがこのサービスを受けられるわけではありませんが、残された人生の苦痛を思えば、死を選ぶという選択を自らした人に対してのよりどころになっているようです。
このサービスのことを色々調べていくうちに、非常に印象に残った言葉がありました。
それは、とある日本人がスイスの自殺ほう助団体に自分の安楽死を依頼して認められた時に、「その日」に薬を手にしていった一言。
自分のエゴか、親のエゴか
こんなに家族に辛い思いをさせてまで、自ら死を選ぶことが、自分のエゴなのか、こんなに子供が辛い思いをしているのに、それでも生きていてほしいと思う親のエゴなのか。
ということなのですが、何とも言いえぬ思いがしました。
この方は、最終的には、直前で安楽死を思いとどまりました。
自分の現在の苦痛よりも、家族が自分が死んだ後に受ける苦痛を考えると、とても死ねない、とおっしゃっていました。
私は、個人的にはどちらのエゴでもないと思っています。
苦しみから解放されたいと思うのも、大切な人を失いたくないと思うのも、どちらも当然のことだから。
みんな思いやりの狭間で苦しんでいるのだと思います。
当事者には当事者にしかわからないことがあります。
だからこそ、当事者になる前に、しっかりと死について、考えておかなければならないと思うのです。
私が終活を始めることにしたきっかけとなった本
私が終活を始めたきっかけは2つあります。
1つは、自分が乳がんを宣告されたとき。
もうひとつは、とある1冊の本でした。
イェール大学のシェリー・ケーガン先生の「DEATH(『死』とは何か?)」という本です。
この本を読んで、
死ぬこと自体は怖くないけれど、自分に死ぬ準備ができてないことが怖い
と思ったことが、終活を始めることになったきっかけです。
この本は本当に哲学的で、タイトルの通り、「死とは何か?」というテーマで、とことん死に向かい合う内容となっています。
最初は哲学的過ぎて、正直読み進めるのがツライです。(多分眠くなっちゃいます。笑)
でも、読めば読むほど、面白くなってきて、今までいかに自分が死について考えていなかったかということに気づかされる本。
まだ読んだことがない人は、是非挑戦してほしいと思います。
自分の人生の主人公は自分。
最高の終わり方を自分で決められること、それが終活だと私は思っています。
備えあれば憂いなし×終わりよければすべてよし。
これこそ、最高の人生の終わり方ではないでしょうか。
これぞ終活の醍醐味かと。