日本の死生観について知る~今は死生観もアップデートする時代です!~

人間の致死率は100%であるにも関わらず、公の場で「死」について私たちの口に上る機会はそう多くはありません。

学校教育においても、「死」に関する授業というものは少なく、倫理的な授業はあったとしても死後の手続き等について学ぶ機会は極めて少ないのが現状です。

知識が全くないがゆえに、家族が亡くなって初めて、死亡後の手続きの多さを知り、愕然とする人も少なくありません。

なんとなく「死」について口にするのが憚られる、そんな日本独特の文化が、日本の特に若い世代においてなかなか終活が浸透しない要因の一つになっているように思います。

死が近くなってようやく終活を始めることは許容されても、若いうちから死について考える終活は不謹慎であると思われることもあるでしょう。

ですが、本来、死について考えることは生について考えることと同義であるはずです。

自分がより良く生きるための活動が、他人から(時には家族から)好ましくないことと思われるのは、とても悲しいですが、これには昔からの日本の死生観が大きくかかわっているのです。

きっと今、40代で終活を始めようと思っているあなたは、日本古来の古い死生観からすでに解き放たれ、時代の変化に合わせてアップデートされた自分の価値観で行動されているのだと思いますが、なかなか古い価値観をアップデートできない人がたくさんいることも事実です。

そこで、今回は日本の死生観を紐解くことで、無意識のうちに日本人が死をタブー視ししてしまっているのはなぜか? そしてその死生観は、今、どのように変化してきているのか? それを踏まえたうえで、今後自分はどのように終活を進めていけばよいのか?という部分に切り込んでいきたいと思います。

この記事を読むと、なぜ日本では死をタブー視しているのか?そしてあなたが終活を進めるにあたって何も後ろめたく感じる必要はないということがわかります。

目次

死生観の歴史と背景

日本における死生観は、古代から現代にいたるまで、宗教的な思想や慣習、社会的・文化的な要素が混ざり合って発展してきました。

古代日本の死生観

古代日本においては、神道が主流の信仰であり、人々は自然現象や神秘的な力を崇拝していました。

天皇家や貴族階級の人々は、神格化された存在として扱われており、彼らの死が神話的な意味を持っていた一方で、庶民の死に対しては、一般的に家族や地域の人々が葬儀を行い、祖先を供養していたため、死を身近に感じることが多かったようです。

また、死は神聖であると同時に不浄でもあるともされており、古代の日本では死者の霊が生きている人々にとって脅威となると考えられていたため、死を扱うことは、タブーとされ、避けられるようになっていったとされています。

中世の死生観

中世に入ると、仏教が日本に伝来し、多くの人々がその教えに触れるようになり、死に対する考え方が変化していきました。

仏教では、死後の世界が重要なテーマとされ、死を身近なものとして捉える傾向があったと同時に、死を清めることが大切であるとされていましたが、一方で、死が人間の本来の姿を失わせるものであるとも考えられていたため、死については避けられるべきものとされていました。

また、中世の日本においては、家制度が重要な位置を占めていたという社会的要因も、死に対する考え方に大きく影響しています。

家制度においては、家名や家族の伝統が重視され、家族の一員が死んだ場合には、その死によって家の存続や家族の名誉に関わる問題が発生することがありました。

このため、死がタブー視され、死後の処理や慰霊に関しては、家族内での秘密裏に行われることが多かったと言われています。

さらに、当時の日本では、殺生禁断の考え方が浸透していたため、他の生命を奪うことは重罪であり、生と死に対する意識が強くなったと考えられており、そのため、よりいっそう死に対する畏怖や敬虔な態度が求められたのです。

つまり、日本の中世の時代において死がタブー視された理由には、宗教や社会的な要因が深く関係していました。

明治維新以降の死生観

明治時代には、日本が西洋諸国との接触を深める中で、近代的な科学や医学が導入され、それによって死の捉え方も変化していきました。

この時代には、人間の死や病気が科学的に解明されるようになった一方で、それに伴い、人々の間に不安や恐怖が広がり、死に対する意識が変化していったのです。

また、明治時代には、国家主義が台頭し、国家に忠誠心を持つことが重要視されるようになり、その中で、死者を神格化することが行われるようになりました。

こういった考え方は、死者が祖国のために命を捧げた英霊として称えられ、国家の存続や発展を支えるというイデオロギーに基づいたものです。

しかし、このような考え方が広まる一方で、明治時代は個人の死についての自由な捉え方や態度が否定され、死がタブーとして扱われるようになった時代でもありました。

そして、近代に入ってからは、さらに死についての慣習や風習が変化していったのです。

以前は、家族や地域社会で死についての取り決めがされていたのに対して、近代に入ってからは、医療や葬儀の業界が発展し、なんと、死に関するビジネスが形成されるようになったのです。

そのため、死が商業的な対象となり、死に関する情報が徐々に制限されるようになっていきました。

現代の死生観

過去の日本においては、死は日常生活の中で重要な位置を占めており、家族や地域社会の一員として、儀式や習慣によって取り扱われることが多かったのに対し、現代の日本では、高齢化や核家族化、都市化などの社会的変化によって、家族や地域社会の機能が弱体化し、死に対する個人的な意識が高まっています。

一方で、古来からの歴史や文化的な要素が今もなお根強く残っており、人々の生活や社会に影響を与えています。

高齢化や核家族化が進んだとは言っても、日本においては、まだまだ家族や親族という単位での考え方が強く、これまでの社会構造や、親の代から受け継いできた宗教観を捨てきれず、結果として未だに死に関する話題がタブーとされ、死についての情報共有や教育が不足しているのが現状です。

現代の日本では、長寿社会が進展する中で、死と向き合うことは避けて通れない問題となっており、それに伴い、死生観に対する認識が高まり、個人的な価値観や生き方を見つめ直す機会が増えていることも事実です。

特に都市部では、宗教に関心が薄れ、個人の自由や尊厳を尊重する立場から、葬儀や供養の形式が多様化しています。

例えば、ほとんどの人が火葬を選択する現代では、それに合わせて骨壺や骨箱をオリジナルデザインで作成する業者も増えており、また、散骨や海洋散骨も選択されることがあります。

さらに、死に向き合うことに対する関心が高まっており、死生学や死生教育といった分野が注目されて始めています。

こういった背景からもわかるように、現代の日本では、かつての日本ほど死はタブー視されておらず、かなり緩和されてきていると言えるでしょう。

日本の死に対する文化的要素

「おもてなし」の精神

また、日本には「おもてなしの精神」という文化的要素があります。

これは、人をもてなすことを大切にする精神であり、葬儀や供養においても、故人を大切に扱うという意識があります。

そのため、葬儀や供養の際には、故人の好きだったものや思い出に残るものを取り入れたり、参列者に故人との思い出を語り合ったりすることが一般的です。

また、供養においても、故人が好んだものや意味のあるものを参考にし、故人にとって大切なものを提供することが求められます。

葬儀は亡くなった人の供養であると同時に、残された人の気持ちを整理する儀式であるため、宗教的・心理的の両側面から、まだまだ「葬儀をしない」「墓に入らない」という選択肢はマイノリティかもしれません。

ですが、多様性が認められる現代においては、その慣習を引き継ぐのも、自分で終わりにするのも自由です。

「生死一如」という考え方

さらに、日本には「生死一如」という考え方があります。

これは、生と死は分けることができないという意味であり、生と死は表裏一体であるという考え方です。

この考え方から、死に対して恐れや悲しみを持たず、自然な流れとして受け入れることが求められます。

また、この考え方から、故人を供養することは、故人の魂を安らかにするだけでなく、生きている者たち自身の精神的な成長につながるとされています。

このような宗教的に何らかの意味を持つ死においては、これまでの価値観を覆すことはかなり難しいと考えたほうがいいでしょう。

特に、年配の方の考え方を変えることは難しいので、その方が信じていることはそれとして受け止め、自分は自分の価値観で、自分の最期を決めてもいい、という考え方にシフトしていきましょう。

あなたの人生の終わり方は、あなたが決めることです。

「迷惑」を避ける文化

日本人は他人に迷惑をかけることを避ける文化が根強くあります。

死を前にして、周囲の人々に迷惑をかけたくないという思いが、死を避ける意識を強める原因にもなっていると考えられています。

このような文化背景が、日本人の死をタブー視する傾向を生み出しているのです。

ですが、人は必ず死にます。

誰にも迷惑をかけずに死ぬことはできません。

だからこそ、終活を通して事前に準備をしておくことで、その手間を少しでも減らすようにすることが大切になってくるのです。

終活の広まりに伴う死に対するタブーの解消

最近では「終活」という言葉が定着し、死を前提としたライフプランの設計を、自分自身や遺族が行うことが求められることも増えてきました。

終活は、死を前提に自分自身の生き方を考えることで、死を避けるのではなく、死と向き合うことができるようになることを目的としています。

このような動きが、死に対するタブー視を解消することにつながると考えられていますが、まだまだ日本人の死を扱う文化は、西洋のようにオープンになることはないでしょう。

それでも、海外の死を前提にした生き方を提唱するムーブメントの広まりに伴い、日本でも「終活」をはじめとする死に向き合う動きが広がりつつあります。

こういった動きによって、日本人の死に対する認識や考え方が変化していくことで、死をタブー視する文化に少しずつ変化をもたらしていくことが期待されています。

現代の日本においては、死について話すことは未だにタブーとされることが多いですが、死と向き合うことは、自分自身や遺族のためにも必要不可欠なことです。

日本人が、自分自身や周囲の人々が心地よく、死というものを自由に考えられるよう、文化的な変化が生まれることを期待したいものです。

まとめ

本記事では、日本の死生観についての考え方や文化的要素についてご紹介しました。

日本特有の、死をタブー視する風潮はまだまだマジョリティではあるものの、現代の日本においては、多様な考え方や形式が存在しているという事実が認知されつつあり、個人の自由や尊厳を尊重する傾向が見られるようになってきています。

死について考えることは、人々にとって大切なことであり、自分自身や家族、社会にとっても意義のあることであるとする考え方が徐々に広まっている一方で、まだまだ古くからの文化的要素や宗教的な信仰が根強く残っており、人々の生活や社会に影響を与えているというのも事実です。

時代はどんどん変わっています。

古い価値観を捨てる必要はありませんが、時代に合わせて自分なりにアップデートをしていく作業は必要です。

そういう意味では、終活の考え方は時代の最先端を行っていると言えるでしょう。

今後終活の広まりに伴って、死をタブー視する文化がなくなり、ポジティブな話題として死に関する話題が「どう生きるか?」という方向性で気軽に皆さんの口に上る日が、近い将来必ず来るはずので、若い今のうちから未来を見据えた終活をどんどん進めくことが大切です。

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